令和のプロ野球ファンには信じられないかもしれませんが、1980年代の球場には“本物のスター”がいました。チームの枠を超えて愛され、グラウンドに立つだけで観客を沸かせる――そんな特別な存在です。テレビの前に人が集まり、子どもたちが背番号を真似して野球を始めた時代。今回は、そんな黄金期を築いた1980年代のプロ野球スターの中から、特に記憶に残る3人を厳選してご紹介します。
野球の歴史を彩った“本物の輝き”を、ぜひ令和世代にも知ってほしい。
1.渡辺智男――「江川2世」と呼ばれた快速右腕の疾風伝 1989年、西武が強行指名した右腕――それが渡辺智男だ。ヒジの爆弾を抱え、プロ拒否を表明していた男を、西武は“密約説”をものともせずドラフト1位で獲得。その直球は150キロ超の快速球。高校時代には、あの清原和博を三振3つに封じ、「力で抑え込まれたのは初めて」と言わしめた逸材だった。 手術明けのルーキーイヤーは5月に合流。夏場からの2度の4連勝で10勝を挙げると、翌90年は13勝、91年には防御率2.35でタイトルを獲得。体をひねり、しなやかな腕から放たれる剛速球と高速スライダーは圧巻で、“江川2世”とも呼ばれた。 だが、森監督に「遊びが多すぎる」と叱られるように、下位打線には“手抜き”も。本人曰く「全力で投げ続けたら体が壊れる」。爆弾を抱えた右腕には、持続より瞬発の美学があった。 「村田兆治さんのように、息が長く投げたい」――そう語っていたが、夢は届かず。92年にヒジの爆弾が再発。94年にダイエーへ移籍してサイドスローへ挑戦するも、かつての輝きは戻らなかった。
98年に西武復帰も一軍登板はなく、静かに現役を退いた。 速さと儚さを併せ持った、まさに“疾風”のような野球人生だった。
2.山崎賢一――“初代ハマの番長”と呼ばれた男は、暗黒時代の大洋ホエールズで異彩を放った存在だった。 高校時代は無名。
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